【皇位継承問題その2】いわゆる『女系天皇』が現れなかった理由
『女系天皇』とは
前回、日本はもともと男系ではなく双系の社会で、男性・女性、男系・女系関係なく継承できるということをおはなししました。しかし一方で、女系のみでつながる天皇はこれまで存在しなかったのは事実です。男系論者はこの点を問題視し、だから男系の血筋を引かない天皇は許されないと主張します。男系論者は、男系の血筋を引かず女系のみでつながる天皇を『女系天皇』と呼んでいます。
『女系天皇』が誕生しなかったのはなぜ?
では、双系社会であった日本で、なぜ『女系天皇』は現れなかったのでしょうか?
端的に言えば、『女系天皇』が禁止されていたからではなく、そのときどきの政治状況や制度などの諸事情によって結果的に現れなかった、ただの結果論に過ぎないということです。
実際、明治の皇室典範が制定されるまで『女系天皇』を禁止するきまりはありませんでした。男系であれば、中国の宗法やフランスの王位継承法、ユダヤの旧約聖書などのように、たいてい何らかのきまりがあるものです。ところが日本にはなかった。天照大御神の天壌無窮の神勅には「吾が子孫」とあり、男系や父系を示す語はありません。古来、日本は双系なのですから『女系天皇』を排除するきまりがないのは当然といえば当然です。歴史学者の本郷和人氏によれば「天皇家は男系男子の血筋を意識して守ってきたのではなく、結果としてこうなったにすぎない」とのことです。
では『女系天皇』の出現を阻んだ「諸事情」とは何でしょうか?
これを説明しないと男系論者は納得しないでしょう。
まず、どういうわけか、最初の6代目の天皇まで女子が誕生しませんでした。女子が生まれなければ、そもそも『女系天皇』は誕生しません。
では8代以降はどうしてでしょうか?
古代の天皇は現在の象徴天皇と違って政治を行っていました。いうまでもなく政治の世界ではどうしても男性が優位になります。だから日本の首相もアメリカ大統領もみんな男性。同様に古代の天皇も男性が続きました。首相も大統領も世襲ではないから男系になりませんが、天皇は世襲なので男子の継承が続けば結果的に男系となり、双系であっても系譜でみれば男系とほとんど区別がつかなくなります。その後、中国の儒教や律令が入りこみ日本でも徐々に男系主義が広まっていき、その影響を受けた人々が日本は古より男系であったと誤解しているだけなのです。日本の男系主義は中国の影響を受けたものです。男系論者は日本の伝統を守るとか言いながら、実際には中国由来の文化を守ろうとしているだけ。これで保守を気取っているのだから呆れたものです。
かつて女性皇族の結婚相手は皇族に制限されていた
とはいえ、男子には男系(父系)男子のほか女系(母系)男子というものもあります。では女系の男性天皇が現れなかったのはなぜでしょうか?端的に言えば女系皇族が存在しなかったからです。ではなぜ女系皇族が誕生しなかったのか?
その理由は、まず女性皇族の結婚相手が男性皇族に制限されていた時期があったからです。8世紀に制定された「継嗣令」で、臣下は5世の女王(天皇の孫の孫)とまでしか結婚できませんでした。5世(女)王は、王と称しても皇親ではありません。女性皇族だけ結婚相手が制限されていた理由は、男性皇族には非皇族女性との結婚の先例がある、女性皇族の尊貴性の維持など、いろいろ考えられますが正確なところは分かりません。ただいすれにしろ、男系女系とは関係ないと考えられます。女系を排除するだけなら、現代のように皇籍を与えなければ済むはなしだからです。それに明治の旧皇室典範では男性皇族の配偶者も女性皇族または特別に許された華族の女子に制限されていました。やはり結婚相手の制限と男系女系とは無関係と分かります。
むしろ重要なのは、かつては皇族どうしの結婚が奨励された点です。奈良時代以前は皇族どうしの同族婚が原則といってもよく、男性天皇の正妻である皇后も女性皇族というのが原則でした。同族婚によって皇統の純血性を維持することで、皇室の権威を確保しようとしていたと考えられます。皇室が意識していたのは男系女系の区別ではなく、皇統と臣下の血統との区別。皇室が守ろうとしたのは男系の血筋ではなく、皇室と臣下との区別、いわゆる君臣の別です。
そもそも同族婚をしていた皇室を明確に男系女系では分けられません。男系だの女系だのにこだわることがいかに無意味かわかります。
氏族(氏姓)制度
しかし桓武天皇の御代以降、女性皇族の結婚制限は徐々に緩和され、平安時代の中期には内親王と臣下の結婚まで認められるようになりました。
だから女系天皇・女系皇族が出現しなかったのにはもう一つ理由があります。それが、645年に制定された「男女の法」です。皇族、貴族から一般の農民(これらをまとめて「良民」といいます)にいたるまで子どもは父方に属すとされたため、女性皇族と臣下の子どもは臣下に属しました。
ん?では日本は男系社会だったのではと思うかもしれませんが、これはあくまで法制度上の話で、実際の社会構造は依然として女系(母系)の要素が強く、夫が妻のもとへ通い、子どもは母方で養育されるのが一般的でした。それに「奴婢(ぬひ)」と呼ばれる奴隷階級(賤民)の子どもは母方に属しました。良民の子が父方に属したのは、政治や行政、税や兵役などの負担は男性が担っていたので父系で統一したほうが管理しやすかったからだと考えられます。もちろん中国の律令の影響もあります。中国の律令にならい租・調・庸の税制が採用され、このうち人頭税にあたる調と庸は男子のみに課せられました。また中国の「門蔭の制」を参考に「蔭位の制」が施行され、高級貴族の官位が父方先祖の官位を基準に決定されるようになりました。
そしてそれまで男系女系があいまいであった氏(ウジ)は父系に限定され、男系で官職や家業が世襲されていきます。「氏」とは、臣下を血縁でグループ化した同族集団で、おおむね5世紀頃に組織されました。氏はランク付けされて「姓(かばね)」と呼ばれる称号を与えられ、姓に応じて特定の役職を世襲しました。例えば蘇我「氏」は「臣(おみ)」という姓を与えられ、「大臣(おおおみ)」という行政の最高職を世襲しました。これを氏姓制度といいます。氏姓制度はその後、形骸化しますが、それでも公式の場では氏と姓は使用され、男系で継承されていきます。
氏姓制度もともとはポスト争いの激化を防ぐための制度です。現代のように実力で決めると内乱になるおそれがあるため、一定の血筋の人たちにポストを世襲させることで秩序の安定をはかりました。
さらに重要なのは、氏や姓は天皇から与えられる臣下の証で、天皇の権威を誇示するものでもあります。天皇・皇族に氏や姓はありません。唯一、無氏無姓の皇室とその他もろもろの氏族という身分秩序を形成することで君臣の別が明確にされました。
まとめ
結局、君臣の別を守るために同族婚や氏姓制度などを行った結果として女系天皇や女系皇族が現われなかっただけなのです。いわゆる男系は、君臣の別を図るための政策によって生じた、ただの副作用。伝統でも何でもないことがわかります。ちなみに氏や姓は明治にはいって完全に廃止されました。もはや男系を続ける理由はありません。
Youtubeでも視聴可能
ゆっくりムービーでもご覧いただけます。説明の順序は異なりますが、内容的にはほぼ同じです。皇位継承の問題を楽しく学べるので、よろしければ見てやってください。